『リトル・コメット』
 
 とある遠い国のお話。
 高飛車な魔女エリ子のもとで修行に励む、童顔小柄な霊感青年がおりました。
 前髪の一房だけが色違いの彼は、名前を楠木誠志郎―――愛称を「坊や」と言いました。
 ドジでマヌケで暴走癖がありましたが、エリ子様にこき使われながらも耐える姿に、みんなは憐憫と愛情を寄せておりました。
 
 ある日の午後。
 誠志郎は、いつものようにお茶の準備をしておりました。しかし、うっかりと手を滑らせて、エリ子様ご愛用のウェッジウッドのティーカップを割ってしまったのです。
 大変お怒りになられたエリ子様は、誠志郎にある罰を言い渡しました。
「いいわね?これを着て、日没までにヤミブン事務所へ書類を届けていらっしゃい」
 きらきらと光を振りまく、魔法の杖を一振り。
 すると、誠志郎の服は、赤いケープとふわふわのスカートと言う、とても可愛らしいものに変わりました。極めつけは密かに仕込まれたドロワーズと、ちらりと覗く白のニーハイソックスです。
 ありえないくらい似合っていましたが、二十歳すぎの男にとってはトンデモ羞恥プレイな姿でした。誠志郎は蒼白を通り越して、真っ白になって今にも崩れ落ちそうです。
 
 誠志郎が居候するエリ子様の屋敷の側には、大きな森が広がっていました。ヤミブン事務所は、森の先にあるエリ子様の上司の仕事場です。
 しかし、この森には恐ろしい狼たちが何匹も潜んでおりました。とても危険だったので、誠志郎は一人で森に入る事を禁じられていたのですが……
「今回の失態は、森を抜けて無事に帰って来たら許してあげるわ。言っとくけど、狼どもに食われたり、日没に間に合わなかったりしたら……通常二割増の折檻が待ってるわよ」
 エリ子様の目が、きらりと光ります。
「そんな……っ! 二割増だなんて酷すぎますっ」
 想像するだけで恐ろしい。エリ子様に慈悲を願いますが、ぴしゃりと跳ね除けられました。
「つべこべ言わずに、さっさと行きなさい。時間は待ってくれないわよ」
 ―――こうして、誠志郎は届け物の書類を抱え、城から蹴り出されたのでした。


「……ええと、森を抜けるには……この標識に従って行けば大丈夫だったはず」
 とぼとぼと重い足取でやって来た森の入り口には、『花畑』『森の奥』『御霊の館』の3つの行き先を記した案内板がありました。
 太陽はとっくに真上を過ぎています。指定された日没まで、あまり時間がありません。書類が入ったA4封筒を抱き締め、森の外れまでの最短ルートを頭に叩き込みます。
 過去に受けたお仕置きの数々がふいに脳裏を過り、あれよりもハイグレードな仕打ちが待っているのかと思うと、少しだけ意識が遠くなりました。
 
 と、そこへ鈴の音が……ちりーん。
「おい、お前。こんな所で何してる?」
(狼……ッ!?)
 声を掛けられ、誠志郎の鼓動は跳ね上がりました。自分には、戦う術がありません。
 しかも履き慣れない革靴、ふわふわひらひらの服で、うまく逃げられるか不安でした。
 恐る恐る背後を振り返ると、そこには首に鈴を付たアーモンド型の大きな目をした……
「……なぁんだ、猫さん」
「オオカミだ!!」
 森の狼、飛鳥井柊一です。シャーッと威嚇する姿は、まさに猫でした。
「あービックリした。いきなり声かけられるから、狼かと思ったよ」
「だから、狼だっつってんだろ!!」
「首に鈴付けた狼なんていないよ」
「ここにいるだろ!?」
「……嘘はもっと上手く吐いた方がいいよ、猫さん」
「だから……ッ!!」
 胡乱な目で見つめられ、ちょっと涙目になって食い下がる柊一でしたが、誠志郎は目的を思い出して言いました。
「そうだ、いけない。僕、これからヤミブン事務所に行かなきゃならないんだ」
「……ヤミブン!? お前、一人で森の外れまで行くつもりか……? その、格好で?」
 柊一が眉根を寄せながら尋ねました。視線はちらちらと、白のニーソに注がれています。誠志郎は思わずスカートを押さえ、真っ赤になって唇を尖らせました。
「好きでこんな格好してるわけじゃないっ!急いでいるから、じゃあなっ」
 頬を染めて恥らう姿は、破壊的な可愛らしさでした。理性が粉砕されそうです。
(自分の部屋まで連れ帰って、アレとかコレとかしてみたい……ッ!)
 柊一がいけない妄想を膨らませている隙に、誠志郎は全力で走り出しました。
 はっと気付いた柊一が追いすがります。
「ちょっ、待て! 一人じゃ無理だ! この先には性悪の……ッ」
 なにかを伝えようとした柊一でしたが、なんと空の彼方から、無数の火の玉が降ってきました。ひとつが服に燃え移り、悲鳴が上がります。
「あちーーーッ!!!」
 微かに悲鳴が聞こえた気がしましたが、誠志郎は振り返らず走り続けます。こうなったら、慣れない革靴もなんのそのです。
(ううう、死ぬほど恥ずかしい……もう、ティーカップなんて割るもんか!)


 森の奥を目指し、いかり肩の開き直り状態で進む誠志郎です。
 すると、前方に人影が……
「坊や、ずいぶんと可愛い格好をしているな。どこへ行く?」
 そこには、思わず見とれてしまうほどの美男が立っていました……が。
「でたーーーーっ!!」
 森では有名な放火魔、ではなく狼。有田克也です。
「待てコラ。ずいぶんな挨拶だな」
 誠志郎は踵を返しますが、足の速さと言うか、足の長さの違いから、あっさりと捕まってしまいました。
「ぎゃああっ、燃やされるー!!」
「うるさいな。あっちに綺麗な花畑がある。ちょっと付き合えば、放してやってもいいぞ」
「……本当に?」
 びくびくと怯えながら尋ねる誠志郎に、克也は含みのある笑顔で頷きました。
「なに、延長なしのご休憩でいいさ」
「なんだそれーッ!!!?」
 言うが早いか、荷物よろしく誠志郎を担ぎ上げると、克也は木々の向こうに見える花畑へ歩き出します。
「誰かーっ! このひと痴漢でーすッ!!」
 誠志郎の声に驚いた小鳥が、何羽か飛び立ちました。しかし、助けを求めようにも、周囲には誰も見当たりません。これは、もっとも恐れていた事態です。
「あんま暴れると茶巾にするぞ」
 茶巾とは、スカートを頭の上までめくられて、裾をきゅっと結ばれることです。
 んなことされたら、ふりふりのドロワーズが丸見えになってしまいます。恥ずかしくて、二度と外を歩けません。誠志郎はぐっと黙りました。
(きっと、克也が飽きるまでいじり倒されて、無事に帰れたとしてもエリ子様にドツキまわされるんだ……)
 絶望的観測を巡らして泣きそうになった時、甲高い笛の音が森いっぱいに響き渡りました。この音は聞いたことがあります。確かあれは、先日の『森の防犯集会』で……
「……なっ!」
 驚いた克也の声に続いて、鈍い殴打音が聞こえました。しかも2回。
 ぐらりと克也の身体が揺らいで、抱えられていた誠志郎も落下します。幸いなことに、下は柔らかい花畑でした。
「大丈夫ですかっ、お嬢さ……んの格好をした君!」
「さあ、今のうちに逃げて下さいっ!」
 目の前には、巨大な木槌を持った森のパトロール隊、安芸&美佳子が立っていました。腕には「許しません性犯罪」の腕章が。足元には、伸びた克也が転がっています。
 そうだそうだ、あれは防犯集会で聞いた『防犯ホイッスル』の笛の音だ。痴漢に遭った時に吹けば、森のパトロール隊が駆けつけてくれるって言ってたな……
 ようやく思い出した誠志郎ですが、いったい誰が吹いてくれたのでしょうか。疑問が残りつつも、大事な書類を抱えて立ち上がります。
「あ……ありがとうございましたーっ!」
 なんとか貞操の危機を脱した誠志郎は、ふたりに感謝しつつ慌てて森へ駆け戻ります。その姿を見送ったパトロール隊は、顔を見合わせました。
「さ、俺らも消しズミにされる前に逃げますか」
「ええ、長居は無用です」
 現われた時と同様に、ふたりはすたこらと走り去ります。残された克也は、突っ伏したまま中指を立てて呟きました。
「……あんの、根暗男め……!」


 花畑から必死に逃げて来た誠志郎ですが、慌てて走ったせいで道に迷ってしまいました。
「ど……どうしよう。ここ、どこだろう……」
 そこは森の中でも特に薄暗く、不吉な感じでカラスまで鳴いていました。
「ちょっと、疲れたな。どっかにコーラの自販機ないかなぁ」
 少し途方に暮れて、ひとり呟きながら近くの切り株に腰掛けました。
「良かったらうちに来るかい?」
「わあああっ!!」
 突然声を掛けられたので、誠志郎は飛び上がって驚きました。声の方を向くと、全身黒のスーツに、オールバックの黒髪。それはまさしく……
「きゅうけつきーーー!!!」
 思わず指差し。ですが森の狼、多能雅行でした。
「いやいや、狼だから。でも、低血圧の寝起きだから、今は何もできないんだ。怖がらなくていいよ。道に迷ったんだろう?」
 にこりと微笑みます。その顔には、善意しか見られない……ような気がしました。
 
「――えと、あの、本当にありがとうございました。道を教えて頂いた上、お茶まで……」
 古ぼけたソファーに腰掛けた誠志郎は、温かい紅茶とクッキーを出され、深々と頭を下げました。
 雅行が住むという御霊の館に案内され、廃墟のような佇まいに一瞬だけ凍りつきましたが、屋敷の中はそこそこ片付いていました。……蜘蛛の巣や、破れたカーテンが気にはなりましたが。
「構わないよ、ちょうど退屈してたんだ……部長は留守だし、もう一人は火傷したとかで早退したし」
 寝起きだと言う割に上機嫌な雅行は、飲み終えた紅茶のカップを置きました。
「あの。良かったらお礼に、あとで部屋の掃除でもしましょうか……?」
 ちらりと部屋を見回して、誠志郎は申し出ました。しかし、雅行はそれを制すると、さっと誠志郎の隣に移動します。
「……いや、結構。それにしても、今日は一段と可愛らしいね。お礼だったら、ちょっと味見させて貰えると嬉しいなぁ」
 そう言うと、雅行は柔らかい線を描く誠志郎の顎に指を掛けました。
「なんの味見ですか?」
 きょとんとしていた誠志郎でしたが、雅行の細い目が次第に近づき、やっとこの後の行為に思い至りました。味見して食われるのは、間違いなく自分のことです。
 紅茶とクッキーにほだされて、油断していたのがまずかったようです。冷たい指で手首を掴まれて、一気に血の気が下がりました。
「た……っ食べてもおいしくないですからっ!」
 涙目で悲鳴を上げた瞬間、誠志郎の膝の上に何かが飛び乗って来ました。びっくりして下を見ると、そこには可愛らしい真っ白な小動物が。
「……オコジョ!?」
「!!!」
 次の瞬間、オコジョは雅行の顔めがけて飛び付き、思い切り爪を立てました。痛そうな音と共に、雅行が悲鳴を上げます。
「ぐわっ!!」
「坊や! 早く逃げるんだ!!」
 どこからか、男の人の声が聞こえました。はっと我に返った誠志郎は、書類を抱えて立ち上がります。
「すみません多能さん! お茶、ご馳走様でした!!」
 律儀にお礼を告げてから、誠志郎は館から逃げ出しました。
(そうだ。あとで消毒液と薬を届けに来よう……)
 どこまでも、果てしなくお人好しな誠志郎でした。


 御霊の館を出ると、森は夕暮れ色に染まっていました。空の端には、夜の色がにじみ始めています。
「急がないと!」
 森の外れのヤミブン事務所は、この道の先です。誠志郎は走り出しましたが、疲れた足がうまく上がらず、小石につまずきました。勢いで体が宙に浮かびます。
 すわ地面に激突かと思ったところで、誰かに受け止められました。
「……っと。大丈夫かい、坊や?」
 声がした上方へ顔を上げると、そこには優しい、穏やかな眼差しがありました。肩に置かれた手は大きくて、とても頼もしく感じられます。
「あ……ありがとうございます」
「どういたしまして。こんなに可愛い姿で足でも挫いたら、狼たちに何されるか分からないからね。もうすぐ、日も落ちるし」
(……狼)
 誠志郎の顔に、不安の色が浮かびました。どうにか逃げおおせて来ましたが、さっきの狼たちがまた現れないとは限りません。
 すると、先ほどの白いオコジョが突然現れました。誠志郎の肩に飛び乗り、長いしっぽを揺らします。
「……お前、さっきの!!」
「オサキ、だめだよ。戻って」
 その一言で、オサキは広い肩へと駆け上がります。見事な主従関係です。
「オサキって言うんですか……? もしかして、さっき助けてくれたのって」
「それより、どこまで行くんだい。良ければ一緒に行こうか?」
「ホントですか!?」
 ぱっと誠志郎が笑顔になりました。柔らかい物腰や、紳士的な態度から、この人と一緒だったら安心だと思えました……が。
「自分も、狼だけどね。それでも良ければ」
 微笑みながら手を差し伸べるのは、森の狼、溝口耕作でした。
「………!!!」
 誠志郎が笑顔のまま固まりました。確かに耕作には、立派な耳としっぽが付いています。
「……どうする?」
 決断を促す黒い瞳が、誠志郎を映し出します。
 信じたくはありませんでした。こんなに優しい目をした人が、狼だなんて。
 今日のいろいろな出来事が思い出されて、なんだかとても疲れてしまいました。思わず、ぽろりと涙が零れます。
「!」
 突然の事に、耕作も驚いたようでした。ですが、涙はどんどん溢れてきます。
「……嘘ですよね? 狼だなんて、嘘ですよねっ!? さっき助けてくれたのに、狼だなんてっ」
 耕作の服の裾を掴み、泣きながらこちらを見上げる様は、たまらなく愛おしいものでした。うるんだ大きな瞳が夕日を受けて、ナントカ流星群でも見えそうな輝きです。
「………っ! 嘘だよ……狼だなんて、嘘だよ……」
 耕作はよろめきながら、額に手を当てました。鉄壁を誇る自制心が、音を立てて崩壊しそうです。念仏を唱えながら、心の壁を必死に補強しました。こんなに純粋な眼差しを向けられては、無体な真似はできません。
「ですよねっ! 狼なんかじゃないですよねっ!」
 誠志郎は笑顔でよろめく耕作の手を取り、並んで歩き出しました。ヤミブン事務所は、もうすぐそこです。


 日没ぎりぎりで駆け込んだヤミブン事務所では、エリ子の上司である魔法使いの万来が待っていました。預ってきた書類を渡すと「君も大変だねぇ」と、眠そうな目でしみじみ呟かれてしまいました。
 やっと肩の荷が下りましたが、今度は夜の森を戻って帰らなければなりません。先ほどまで付き添ってくれた耕作とは、森の終わりで別れました。狼でもないのに、森の外へは出られないのだそうです。ええ、狼でもないのに。
「夜道は危険だから、屋敷まで送って行こう。狼は、夜に本性を現すからね」
 万来は、頑丈な空飛ぶ箒を取り出しました。これは、一人前の魔法使いにしか乗りこなせない憧れの一品です。誠志郎は、万来の後ろに相乗りさせてもらう事になりました。
 ふたりを乗せた箒は、夜空へ向かって滑らかに上昇します。誠志郎は、真下に広がる夜の森から、満天の星空へと視線を移しました。瞳にたくさんの星が映り込みます。
 なんとも散々な一日でしたが、星の光りで体の疲れも消えてなくなるようでした。
 箒星になって夜空を横切るふたりの姿は、森の狼たちにも見えました。
 晴れて誠志郎と恋仲になるため、他の狼たちを出し抜き、それぞれ次のチャンスを待つことになりそうです。
 なんと言っても、本人が知らないだけで、誠志郎は森のアイドルでしたから。


「ただいま戻りましたー」
 無事に城に帰りついた誠志郎を見て、エリ子様は綺麗な笑みを見せました。
「おかえり坊や。狼どもにいたずらされなかったでしょうね?」
「ハイ。声掛けられたり、抱き上げられたり、キスされそうになりましたけど、耳としっぽの生えたすっごい優しい人にヤミブンまで送ってもらったから、全然大丈夫です」
「………まさに送りオオカミに送られてきたってわけね。ま、あいつらお互いで潰しあってるから、大丈夫だとは思ってたけど」
 やはり、護身術を叩き込もうと決めたエリ子様でした。いや、その前に「知らない人について行ってはいけません」を教えるべきかも知れません。
 兎にも角にも、誠志郎のはじめてのおつかいは、無事に幕をとじたのでした。
 これにてハッピーエンディング。