ビル風に乗せて 秋晴れの良い日である。 窓辺に陣取り夢と現の間を漂っていた私は、獣の唸りのような声で目を覚ました。 声をした方に目をやれば幼い顔をした青年が、淡く光を放つ箱と睨めっこしながらうんうんと唸り声を上げている。私は人の顔を覚えるのがすこぶる苦手だ。妖しと違い人間には大きな個体差がないからだ。あっちは額に角三本、こっちは全身毛むくじゃら、そっちは耳が地面に垂れている、それくらいなら短い間に区別のつけようがあるものを。しかもただでさえ違いの少ない身体をしているというのに、似たような衣を身に纏い、似たように毛繕いし、四つ子五つ子が群れをなして道を歩いているようにしか思えぬ。そんな私が彼のことは一度姿を見ただけで記憶した。 「髪の一部分が金髪だと不良に思われるから大変だね。高校では地毛って信じてもらえなくて苦労したんだろう?」 主が言うには金色の一房は彼にしなくてもよい労苦を背負わせたらしい。本人が不平不満をこぼすのを私も何度か耳にした。しかし私が彼の姿を忘れぬのは、まさにその一房のためなのだ。聖痕などともったいぶったことを言う者もいるが、私にはそれが素朴な星の光のように思えるのだ。夜空に浮かぶ一粒の光。けれど決して消えることのない唯一の光。 大きく伸びを一つして、頭を掻き毟る青年の肩に飛び乗った。 「あ~オサキかぁ。溝口さんいないと寂しいだろ?」 唯一の主が側に居ないのはやはり寂しい。けれど、秋の良き日に部屋の中でのんびりするのはそう悪くはないのだ。憔悴しきった彼の慰めになればと身体を白桃のような頬に擦り付ける。 「優しくしてくれるのはオサキだけだー。だいたいアルバイトなのに一ヶ月の半分が出張っておかしくないか。俺まだ大学生だし。月に二回は病院のお世話になるし。なんだかんだで死にそうな目にもあってるし。だいたい普通は何回も死にそうな目に合うこと事態がおかしいだろ。その上課長は古狸だし、エリ子さんは鬼だし、アリは性悪だし、溝口さんもあたりは優しいけどけっこう厳しいし……あわわ、オサキごめん」 皆が貴方に厳しく接するのはちゃんと理由があるのだが。まあ、よい。四つ足で慰めの言葉をかけることもできぬ身だ。その程度の愚痴ならいくらでも耳を傾けよう。尻尾を揺らして意思を伝えようとしたのだが「…軽くあしらわれた」と青年は肩を落とした。まったく主以外の人間と意思の疎通を図るのは本当に難しい。 関係のない案件の報告書をまとめるのがいつのまにか役目になっているのだから、文術が巧みなのも考え物かもしれぬ。机の上にところ狭しと並べられているのは主の同僚である捻くれた男が関係した事件の資料だ。人間と比べ物ならないほど長い時間を生きても、どうしても虫の好かん相手はいるものだ。悟りなど決して開けぬ。後輩に体よく仕事を押し付ける要領のよさと遣り口の悪辣さ、それと餡子をめぐる怨みつらみに、主の心情も含めて腹が立つ。 怒りのまま机の上に飛び乗って無数の突起がついた板の上を走りぬける。 「わ、こら! オサキ! やめ、止めろってば!」 上下左右から腕が追いかけてくるが、その程度の動きで捕まるものか。往復を何回か繰り返すとおかしな音がして箱が真っ暗になった。捻くれ男の報告書がこの世から跡形も消え失せたことで爽快な心地がする。 どだい電気仕掛けのからくりが好きな妖しなどおらぬ。一日中こんなものの前に座っていられる人間のなんと忍耐強いことだろうと関心もすれば、たまには息を抜けばいいのだとおせっかいをしたくなることもあるのだ。 満足して後ろを振り向くと血の気の引いて青白くなった顔とかちあった。視線は私を通り抜けて、黒くなった箱を向いている。 糸が切れた人形のように青年が机に倒れた。額と机がぶつかる鈍い音にぎょっとして、慌てて壁際の棚に飛び移った瞬間、私は体のバランスを大きく崩した。床に落ちていく私の視界いっぱいには、数え切れないほどの紙の束が踊っている。誓って言う。昨日まではそんなもの棚の上になかった。脳裏に毛唐のように彫りの深い不愉快な顔が思い浮かぶ。お前か、有田克也。 「あーーーーっっっ!!!」 青年の絶叫が事務所に響く。私は身体を反転させて床に着地すると青年の机の反対側にある主の机に飛び乗った。さすがに雷が振ってくるか? 身構えた私に、けれど青年は目もくれなかった。ずるずると椅子の背中に身体を預けると「もうだめだ…今日も定時に上がれない…もう限界かも……」と天に向かって呟くと、そのまま机の引き出しから一枚の紙を取り出してじっと眺め始めた。 「……せっかく公務員試験の勉強してるんだから、義理堅くヤミブンしか受けないとかもったいないよな。普通の役所に勤めて普通に仕事して定時に帰って友達とちょっと飲んで…。給料はヤミブンより低いだろうけど、そっちの方がよくないか? つーか絶対そっちの方がいい。やっぱ他の自治体の試験も受けようかなぁ」 私は貴方の属する組織の苛烈さを知っている。 私の主や同僚、二人の上司と違い身を守る手段を持たない貴方が、生命を脅かされる場面に数え切れないほど遭遇していることを知っている。 忙しくても安全に過ごせる職を貴方が求めたとしても、きっと引き止める権利は誰にもない。 青年が溜息をついた時、事務所の扉が開いた。慌てて引き出しに戻した紙がちょっとだけはみ出ていた。 「坊や。報告書終わったか? ……なんだこの有様は」 開口一番それか。私は室内に入ってきた男に対して背中の毛を逆立てる。飛びかかろうとしたところで、遅れて入ってきた主に声をかけられて気勢を削がれた。 「ただいま、オサキ、坊や。……どうしたんだい? この有様は?」 私は主を見上げると必死に原因を伝えようとした。 有田克也が彼に報告書を押し付けたこと。 息抜きをしてもらおうとおせっかいをしたこと。 主はちょっと笑ったようだ。苦笑いしたまま青年に笑いかける。 「オサキがいたずらしたみたいだね。ごめん」 「そんなことないですよ。すいません、すぐ片付けますね。あ、今すぐお茶も入れてきます」 「あ、僕がお茶入れてくるから」 すいませんと恐縮しきりで片づけを始めた彼に、今度は有田克也が話しかける。 「書類は?」 「見てわかるだろ! 全然終わってない、今日も残業だよ!」 わめき声に細い眉が神経質につり上がった。 「またか?」 「アリのせいだろ!」 有田克也は小さく肩を竦めると手を持ち上げた。はたしてそこには菓子折りをいれた紙袋がある。 「忙しい時間をやりくりして土産を買ってきてやった先輩に随分なご挨拶だな。耕作、湯飲みは俺とお前の二人分でいいぞ」 「アリの鬼!」 「鬼で結構。鬼は茶菓子を分けてやらんし、報告書の作成も自分でしないしな。……今日の分の報告書も追加しておいてやるからキリキリ働けよ」 「くおおおぉぉぉぉ!!!」 給湯室から聞こえてきたのは大きな笑い声だった。 「アリ、あんまり坊やを苛めるなよ。将来有望な新人に愛想を尽かされたら困る」 ふんと大きく息をつくと有田克也はソファーにふんぞり返った。腹が立った私はその涼しげな顔を睨みつける。少しは二人を見習って少しは動いたらどうなのだ。 視線を感じたのか、こちらを向いた有田克也とばっちり目があった。 「……食べたいのか?」 お菓子の包みを持ちあげてニヤリと笑う。感じが悪い。そんなものいるかと言いたい。背中を向けて主の元に駆け寄りたい。けれどお菓子の、いや、その内側から漂ってくる餡子の匂いに抗う事が出来ない。 ふらふらと匂いのする方に体が引き寄せられて…… 「危ない!」 澄んだ声の警告が響いて我に帰った。間一髪で私は自分の尻尾を掴もうとしていた手から逃れた。有田克也! あいかわらず姑息な手を! 飛び上がった私は青年の机に飛び乗る。着地した瞬間、前脚がつんのめる。集められた紙の束が再び宙を舞う。視界の端には血の気がなくなった顔。ここは足場が悪い。今度は棚に飛び移り、何かが足に引っ掛かかる感触、陶器が割れる音がして、「ぎゃああぁぁぁぁぁ!!!」という青年の悲鳴。悪いが構っている暇はない。今日こそは、あの不届き者を尻の穴から裏返しに―― 「止めなさい、オサキ」 飛び掛ろうとしたところで主の声が割って入った。見上げれば湯飲みを三つ携えた主が苦笑いをしている。憤りが抑えきぬまま、私は主の足の周りをせわしく動き回った。 「すごいことになってるね」 主がテーブルに湯呑みを置くたび、緑茶の香りがふわりと室内に漂った。 「坊や、オサキに恩を仇で返されたようだな」 嫌味に言い返す気力もないのか、青年は真っ白に燃え尽きたままブツブツと独り言を呟いている。 「あはは…今日帰れるかな…。つーかもう、事務所に住んだ方がいいんじゃないのか自分…」 まず、少し休もう。主に声をかけられた青年は操り人形のようにソファに腰掛けた。 「オサキのやったことだから俺にも責任があるよね。御詫びとして残業につき合わせていただきます」 「とんでもない! 溝口さんも出張から帰ってきたばっかりで疲れてるのに…」 「二人でやれば早く終わるよね。そしたらなんか食べていこう」 もちろん奢らせてもらうから。冗談めかして言われた言葉に青年は目を輝かせた。その様子を見ていた有田克也が会話に割り込んできた。 「仕方ない。可愛い後輩の為だ。俺も手伝ってやるか」 「げっ…! なに企んでるんだ…」 「失礼な奴。心配するな、貧しい坊やに助っ人の礼としてたかるつもりはないからな」 まあ、坊やが奢れるものはたかが知れてるし、ジャンクフードは願下げだ。と減らず口を叩いて。 「実はお得意様から和牛の肉を頂いたんだか」 「和牛!?」 「最高級のな。……好意は嬉しいが一人で食べ切れる量じゃない。まあ、俺と耕作と坊やの三人だったらいけるんじゃないかと思ってな」 「今日はアリの家で焼肉か?」 「うわっ! 絶対食べたい!」 「そのためには何としても定時で上がる必要がある」 お菓子のからをぐしゃっと握りつぶして有田克也が立ち上がった。 「坊やも耕作もいつまで休んでるんだ。あと二時間で絶対に終わらせるぞ」 青年は気合いっぱいに、主は笑いながら立ち上がった。どうやら今日は陽があるうちに帰路につけそうだ。私もご相伴に預かれればいいのだが。 私は飛び上がって主の肩に、定位置に飛び乗る。また古墳か蔵か洞窟にでも入ったのか、黴の臭いとほんの少しの血の臭いがした。また危ないことをしてきたね。大丈夫と口に出来ぬかわりに頬に身体をすり寄せる。 「平気だったよ」 主はそう言って穏やかに笑う。 本当は知っている。 能力がある主も有田克也でさえも、一つ何かを間違えれば生命の落とす危険があるということを。だからこそ、何があっても帰ってくる時だけは笑顔をつくっていることを。 本当は気付いている。 わざと多くの書類を任せて事務所に留めておくことで、彼を危険に近づけないようにしていることを。 そしてもう一つ。主は、ほんの昔を覚えているだろうか。 貴方は穏やかに微笑むことはあっても大声で笑うことなどなかった。 有田克也は私にかまうことなどしなかった。 事務所はいつも静かで賑わうことなどなかった。 彼が居るようになってからだ。彼が居るようになってから貴方も私も有田克也も気難しい上司二人でさえ言葉と笑顔が増えたのだ。 まるで北極星のようだと思う。暗い夜道を一人ぼっちで歩いている不安になっても、その光を目指して歩く誰かがいることを信じることができる。主と有田克也がそうであるように強く優しくなることができる。なぜか。誰よりも臆病な貴方が、誰かを守るために誰よりも強くなれることを皆が知っているからだ。 賑やかに仕事をする二人を主と共に見ながら……思い出した。私は慌てて床に飛び降りる。不思議な顔をした主に小首を傾げることで返事をする。主も大きな身体に似合わぬ可愛らしい仕草で軽く首を傾げると一つ笑って後輩二人に近付いて行った。 私はそろりと青年の引き出しに近付き、はみ出ていた紙を素早く抜き取った。そのままつむじ風のように外に出る。 強いビル風に向かって紙を離してやる。白い紙はあっという間に灰色のビルとビルの間に姿を消した。そこに向かって私は心の中で小さく呼びかけた。 求人票よ。たぶん、貴方の出番は永遠にないよ。 |