アルタイル





 時は七夕。時刻は夕暮れ。星空から一番遠い処へ。
 ……好きな人の好きな人は好きじゃない。





 瞬きをした瞬間に、瞼の縁をするんと星が流れた。
「あれ、」
 今、流れ星が落ちた気がする。楠木は上を見上げたまま瞬きを繰り返したが、その姿が再び星に見えることはなかった。
 マリンスノー。
 本当は人の潜れない深海でだけその姿が見られるものらしい。
 水族館の天井に設置された巨大な映写機がちらちらと降るマリンスノーの映像を一時間毎に五分ずつ繰り返し映しだしている。
「星……雪……星……やっぱり、雪だよな?」
 流れ星のようにはっきりとした角度と速度を持たないマリンスノーの映像はやはり雪に例えるのが丁度良い。それにしても、ほんの一瞬とはいえ、どうして星だなどと思ったのだろう。
「まあ良いか」
 星満ちる夏の夜、そんな勘違いをすることもあるだろう。
 少々ロマンチックな勘違いを軽くあしらいながら、まだ終わらない模造品のマリンスノーを見やる。
 けして降り積もる事のない雪はまるで流星雨のようだ。
(…… 、 )
 彼女の記憶は、なぜかいつも光と共にある。闇に呑まれてしまったからかもしれない。その手を掴むことが出来なかったからかもしれない。
 けれど今でも、思い出の彼女の姿は光と共に在る。
 未来に進めと言ってくれたからかもしれない。
 思い出して口元の緩んだ楠木に、今日の同伴者――否、誘ってきたのは彼のほうだから、同伴者と呼ばれるのは楠木のほうだろう――有田が「何を考えている」と声をかけてきた。
「ええと……マリンスノーって、やっぱり雪みたいだなあと……」
 無難な答えを返した楠木に有田は呆れた吐息を洩らした。それが予想通りで、やっぱりと思う反面、少し面白くなかった。
「大体、水族館で高尚なことを考えるはずがないだろ」
 噛み付くように言い返すと、意外なことに「それもそうだな」と同意が返ってきた。
(……なんなんだ……)
 やっぱりこいつ、今日は可変しいぞ。と楠木は警戒する。油断したところでぽかりとやられてはたまらない。大体、誘ってきたときの態度からして普通じゃなかった。妙にしおらしくなったり、そうかと思うと尊大な態度をとったり。つまり今と同じ、普通ではない状態だったのだ。
 正直なところ、告白されたときのほうが十二分に強引で自尊に溢れていて彼らしかった。
 思い出しかけて、赤くなりかけた頬を慌てて意識を反らすことで冷ますと、(油断大敵。)と改めて自分に云い聞かせ、楠木は「次はどこに行く?」と有田に話しかけた。マリンスノーの映像はゆっくりと消えかけている。
「俺はどこでもいいんだが……」
 これだ。
 何故か今日に限って不意にこちらに主導権を譲ってくるのだ、この男は。
「あー……」
 いったいなんなんだ。
 がりがりと左手で頭を掻き、右手に持ったままのパンフレットに視線を落とす。広げてもいないパンフレットの中身が見えるわけもなく、楠木には床しか見えない。
 ここで自分もどうでも良いと投げ出すわけにもいかず、楠木は「そろそろ閉館時間だよな」と有田に確認を取った。
「そろそろ外に出て、夜ご飯食べに行きたいな。……ぼくの財布の範囲内で!」
 途端「なにを云ってる」と頭の天辺を叩かれた。
「誘ったのはこっちなんだから、奢ってやるに決まってるだろう」
「ぅわああぁあ?」
 有り難いやら気味が悪いやらでおかしな応答をした楠木の頭をまたぽかりと叩き「俺の財布の範囲内でもいいんだぞ?」と、脅しつけてきた有田に慌てて楠木は口先ばかりの礼を云った。
 なんにせよ、一食分浮いたと思えばありがたいことに変わりはない。
 水族館を出ると、夜空一面に天の川が広がっていた。
「さすが郊外! 見えるもんだなぁ」
 水族館に行って、ついでに天の川まで見られた眼福にあずかって、歓声をあげた楠木に有田が憮然とする。
 それに気がついて嬉しそうな表情を保持したまま、やっぱりよく解らないと楠木は思った。彼の不満に気付いたとはいえ、それで自分が態度を変えるのも相手の意向を伺っているようでどうかと思う。訳も解らず下手に出るのは嫌だ。
 いったい何が不満なのだろう。
 一度口に出した夕飯代を今更惜しむような性格ではないことは短い付き合いながらも承知している。
 定時に終わった仕事、ゆっくりと楽しめた水族館、そしてこの満天の星――天の川!
 デートとしては上々の部類ではないか。それとも有田の心算は違うところにあるのだろうか。
 わからない。
「デネブ、アルタイル、ベガ……」
「ほう、星が診得るのか?」
「見えるに決まってるだろ! と云うか、小学校の夏休みの思い出と云うか」
 学校の宿題に自分ひとりの力では見つけられず、祖母や母にも手伝ってもらってようやく探し出した大三角は、そのせいか、なんとなく今でもすぐに見つけ出せる。ここにも『光』があった、と楠木の胸にふうわり温かいものが湧き上がる。
 言葉の意味が違うんだがなと喉で笑った有田の袖を親指に力を込めてぐいと引っ張り、楠木が「でっ、どこに連れてってくれるんだよ?!」と催促すると、有田は小さな子供の癇癪をあしらう仕草で車へと足を進めた。
 面白くないが、仕方ない。
 ここは郊外で自分には足も無いし、夕飯を奢ってくれると云うし、今更こんな態度をされたところでもう本気で腹もたたないし、と少しばかりムッとする自分に云い聞かせ、楠木は有田の後を追う。
 夜の空にひゅぅと流れ星が走った。目の端に捉えた流れ星に、ふと楠木が足を止め、つられるようにして有田が足を止める。
「どうした」
「いま流れ星が……」
「願い事でも言い忘れたか」
 皮肉気な言い方に気付かず、楠木はねがいごと、と言葉を繰り返した。その姿に目の前に立つ有田が面白くなさそうな顔をしたことにも気付かないまま、空を見上げる。
 デネブ、アルタイル、ベガ。
 願い事をするなら、遠くへ行ってしまった彼らを想おうか。デネブの助けが得られなかったアルタイル。ベガに手の届かなかったアルタイル。
 そのまま暫く空を見上げて、もう流れ星が落ちてこないことを少し残念そうな顔で楠木が視線を降ろす。
(まあ、マリンスノーみたいにじゃんじゃん降られても困るんだけどさ)
「満足したか?」
 改めての有田の口の悪さに、やーな云い方、と楠木が眉間に皺を寄せて舌を出す。
「ちょっと星が見たかったんだよ、夏だし」
 願い事。
 今願うなら、何を願っただろう。
「まあ、夏だしな」
 そう言うと、懐を探って一枚の人型を出す。それはぽっと火を熾すとヒュッと音をたてて空へと飛んでいく。一瞬、見えなくなった光は次の瞬間、夜空にぱっと弾けた。
「下から上に流れる星なんてあり?」
「でも、『これ』でも充分満足だろう?」
 云い方は皮肉っぽいくせに、声音には懇願が混ざっていた。
(……何が不安なんだか)
 空が遠いからだろうか。
 今が夏だからだろうか。
 それとも、もしかして、ぼくが遠いと思われているんだろうか。
「まあ良いよ」
 少し先にある有田の胸に飛び込んでしがみつくと楠木は笑う。
 デネブ、アルタイル、ベガ。
 夏の星空。海の雪。流れ星のような花火。
 ねがいごと。
 願うなら、叶うなら、心配する事など何もないと目の前の恋人に伝えられればそれでいい。
「願いごともちゃんと唱えたしっ」
 ぼくのアルタイルは彼で間違いないのだから。